ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第二十八話「目指すべきところ」




 泉でカトレアの治療をした後、あまりにも会話が弾んでしまったおかげで、割と慌てて公爵家に戻ったリシャールたちだった。楽しくて少々時間を忘れてしまったのだ。
 心配して屋敷の庭先で待っていたカリーヌやルイズの前で、リシャールは小さくならざるを得なかった。
「遅くなりました、申し訳ありません」
「お母様、リシャールを責めないで。
 ……本当に楽しかったし、嬉しかったの」
 カトレアは、カリーヌの側に寄ってぎゅっと抱きついた。
「どうしたのですカトレア?」
「ちいねえさま?」
 母親にしがみついたまま、カトレアは小刻みに震えて泣いていた。怒るに怒れず、カリーヌも少々困惑気味であった。
「お母様……。
 わたし、気軽にじゃあ行こうなんて、誘われて、お出かけするのって、初めてで、たったそれだけのことなのに、すごく嬉しくて、楽しくて、それで……」
「カトレア……」
 後は言葉にならなかった。
 カリーヌも娘の気持ちを理解を示し、カトレアの頭をやさしく撫でて抱き寄せた。
 ルイズはもらい泣きしたのか、少々目が赤くなっている。
 客観的に見れば僅かな時間だったが、カトレアには色々なことがありすぎた。彼女も感情が高ぶっているのだろう。リシャールも、そのあたりは同様だった。
 しかしこれでは、去るに去れない。リシャールはじっとカトレアとその家族を見守っていた。
 しばらくして、カトレアはルイズに手を引かれて少々恥ずかしそうに部屋へと戻ったが、リシャールはカリーヌに引き留められていた。
「リシャール」
「はい、カリーヌ様」
「母として、家族として、心から礼を言います。
 ありがとう、リシャール」
 カリーヌは、いつかのルイズと同じようにリシャールに頭を下げた。さすが親子だなあと少し思う。
「頭をお上げ下さい、カリーヌ様」
「いいえリシャール、貴方はそれだけのことをしてくれました。
 ……カトレアがあのように泣いて私にすがったことなど、はじめてでした。
 余程嬉しかったと見えます」
 そう言うカリーヌも、少々目が赤くなっていた。もちろんリシャールは、気付かない振りをした。
「それにしても……」
「はい?」
「カトレアは近頃、本当によい表情をするようになりました」
「はい」
 たしかに、健康というにはほど遠いが、徐々に運動の効果も出ているのだろう。ここに来た当初とは比べ物にならない。
「それもリシャールのおかげなのかしらね?」
「えっ!?」
 実にいい笑顔で凄まれた。もちろん目は笑っていない。
 カリーヌの言った『本当によい表情』の意味。
 ああ、そういう意味で口になさったのか。
 なるほど、ヘビに睨まれたカエルとはこういう時に使う諺なのだなと、頭の片隅で考える。脂汗が出てくる。カリーヌの迫力は尋常ではなかった。
 しかしその後、今日のところは娘の喜びに免じて許すとのことで、リシャールは無事に解放された。
 心の底から助かったと思った。知らず息も上がっていたが、カトレアの夕食の準備などもあったので、気合いを入れ直して本来の仕事に戻った。
 それでもふとした合間にカトレアの笑顔が思い浮かび、慌てて頭を振るリシャールだった。

 泉での一件から数日、リシャールも注意深くカトレアの体調を見守っていたが、特に悪い影響は見られなかった。休憩日を挟んでの療養は続けられているし、そちら方の成果は上がっていたから、カトレアの負担が二十分の一減ったのだろうと言うことにしておく。
 カトレアは、治療の合間にぎゅっとリシャールの手を握ったりしてくるようになった。真っ赤になるリシャールを見て嬉しそうにしているので何も言えなかったし、リシャールも嬉しいには違いないので、そっと握り返しておく。今時、中学生でもそんな純粋なつきあいはないだろうにと心の中で自分に突っ込んでおいたが、まんざらでもないのでカトレアの好きにさせていた。
 そのカトレアからは、なるべく早めに出世してわたしを迎えに来てねと念押しされてもいた。リシャールとしても希望に添いたいところであるが、現状出来ることはカトレアの療養だけであったから、今はこちらに集中しますとかわさざるを得なかった。
 それでも出来そうなことは幾つかある。
 リシャールは公爵に願い出て、公爵家の書庫で貴族家に関しての権利や義務、そして肝心な叙爵や陞爵についてを入念に調べ上げていった。もちろん表向きは、カトレアのためと言うことにしてある。正しくはないが、間違いではない。カトレア以外は医学書でも探していると思っていたようだが、もちろんリシャールは訂正をしなかった。
 いますぐは無理でも、今後の参考にでもなればいいと、その時は思っていた。

 また、アーシャがカトレアから取り出した水の精霊とやらは、世に言う水の秘薬だということがわかった。小瓶一つでも数百エキューはする高価な魔法薬である。
 リシャールは少し驚いたが、もしかしてと思うこともあった。
 カトレアの病は、幼少時から水の秘薬を過剰投与し続けたからではないのか、と思ったのだ。公爵家の全力で医者を、ひいては秘薬を手配し、惜しげもなく使い過ぎた結果なのではないだろうかと。
 元々カトレアは虚弱な体質だったのだろうが、処方を間違えたか、それとも投薬で調子を崩したところに、更に秘薬を投じたのかはわからないが、自然に排出されるよりも多く、どんどんと体内に積み上げられていったのだろう。今となっては確かめようもないが、それらが身体に留まり続けたのは、体質や他の薬との複合効果や副作用による可能性もあった。
 特に魔法を行使すると発作を起こしやすいという点については、魔力練り込むときや魔法を発動させるときに、水の精霊力が魔力の流れを阻害するか、呼応して暴走するかしてしまうのだろうなとあたりをつけることが出来た。アーシャによれば、元々はカトレアの中にこれほど大きい力を持つ水の精霊はいなかったとの事だった。教えて貰った精霊についての知識が、これらの仮説を立てるのに役立っていた。
 いずれにせよ水の精霊、いや水の秘薬については、あと三年少々をかけて徐々に抜いていくしかないのだ。

 さて、そろそろリシャールがラ・ヴァリエールへと来てほぼ一ヶ月になろうとしていた。本当に、あっと言う間のひと月である。
 カトレアへの治療の方も安定したので、そろそろ一度ギーヴァルシュに戻らなければと、リシャールは考えていた。いかにカトレアが大事と言えど、商会の方も放っておくわけには行かないのだ。
 幸い、厨房の方もリシャールの作る料理については覚えて貰っているし、カトレア付きのメイド達にも体操や足湯を含めて手順の殆どをまかせている。あとは、指導要領的な基準と緊急時の対処を書き残しておけばよいだろう。
「……というわけで一度ギーヴァルシュの方へと戻りたいのですが、宜しいでしょうか?」
 ほぼ毎夜の恒例となっている寝酒の席で、リシャールは公爵に出立の許可を求めた。
「カトレアの方はかなり良くなっているからな。
 もちろん構わんぞ。
 リシャールは本当によくやってくれた」
「いえ、カトレア様ご自身の努力ゆえかと存じます」
「そう謙遜するな。
 お主が寝る間も惜しんでカトレアのために動いてくれたことは、よくわかっている。
 ……そうだ、礼もまだであったな。
 何か欲しい物はあるか?」
 まさかカトレアが嫁に欲しいと口に出せる筈もなく、リシャールは黙り込んだ。かといって、他に欲しい物が急に思いつくというわけではなかった。
「遠慮せんでもよい。
 少々の無理なら聞くぞ?」
「その、公爵様、急に仰られても思いつかないのですが……」
「む、それもそうであるな。
 まあよい、何か思いついたら遠慮なく申せ」
「恐れ入ります」
「……しかし、夜が寂しくなるな」
 リシャールは公爵のグラスに酒を注いだ。
「では、今度こちらにお伺いするときは、王都で何か仕入れて参りましょう」
「そうしてくれ。
 そちらも楽しみにしておく」
「はい、公爵様」
 その後二人で少し話し合い、リシャールの出立は二日後、また、なるべく早い内にラ・ヴァリエールに戻ることと決められた。

「あら、行ってしまうの?」
 もちろん、カトレアには拗ねられた。
 拗ねることが当然と楽しんでいる素振りもあるが、それさえも彼女には喜びなのだろうと、リシャールは真摯に受け止めた。カリーヌに抱きついて泣いた姿を見てからは、カトレアの気持ちには気遣いせざるを得なかったリシャールだった。
「向こうに着いたら手紙を書きますよ。
 それに、こちらにはもちろん戻って来ます」
「楽しみにしているわね」
「はい、ですのでカトレア様も治療の方、頑張って下さいね。
 それと無理は駄目ですよ。
 遠回りに見えても、ゆっくりでも、確実に治していきましょう」
「はい、先生」
 二人で顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「……ねえ、リシャール。
 一つお願いがあるの」
「はい?」
 リシャールは、お土産か何かのおねだりかなと考えた。公爵には酒、ルイズには小物、カトレアにはご希望の品……はいいとして、公爵夫人へのお土産は何がよいのだろうかと少々悩む。
「そこに立って」
「あ、はい」
 リシャールは姿勢を正した。カトレアは椅子から立ち上がって、リシャールの真正面に立つ。
 リシャールがあっと思う間もなく。
 ちゅ。
 不意打ちだった。
 カトレアはリシャールにキスをしてから、少しだけ頬を赤く染めてリシャールにお願いをした。
「わたしよりも、すこしでいいから背が高くなってくれると嬉しいのだけれど……。
 十三歳なんだから、まだ大丈夫よね?」
 お姫様のお願いは、王子様の努力だけでなんとかなるものではなかった。
 カトレアの身長が百六十サントと少しで、リシャールは今のところ百五十五サント前後。まだまだ伸びているし、父や兄たちの身長は百八十サント近くあったからなんとかなるとは思うが、こればかりは個人差があるので確約は出来ない。それに、同じ祖父でも父方のニコラは背が高くがっしりとした方だが、母方の祖父モリスは細身で背も高い方ではないのだ。そして、リシャールの顔は母親似であった。
「えーっと、がんばります」
「ええ、お願いするわね」
 にっこりと微笑むカトレアが綺麗で、断りきれなかった。

 出立前日には、出来る限りのことを済ませた。
 カトレアのことは、ラ・ヴァリエールの家臣団の優秀さもあって、任せても大丈夫なようである。
 もちろん、後回しにしていた今後のことは、自分で考えねばならなかった。
 ラ・ヴァリエールに送る煮干しなどは王都でデルマー商会に頼めば手配してくれるだろうし、ギーヴァルシュから送るよりも手間が少ない。王都では、祖父らにも挨拶せねばなるまい。商会のことはギーヴァルシュに戻ってからでもよいが、王都で済まさなければいけないことも多かった。
 予定を考えると、王都では丸一日走り回らなければならないようだった。
 本業を放置していた分のツケは、リシャール自身が支払わねばならないのだ。

 翌日、公爵一家に見送られてアーシャに乗り、王都を目指した。
 別れ際にカトレアが涙ぐんでいたのには少々困ったが、何故かカリーヌがそれを支えるようにして公爵の目から遠ざけていた。ルイズまでもが急に多弁になってそれを援護していたのが不思議だったが、下手に聞くわけにもいかず、リシャールはそのまま旅立った。
「アーシャ」
「なに?」
「こうしてアーシャに乗せてもらうのも久しぶりだね」
「うん。
 でも、さっきはカトレアがかわいそうだった」
「泣かせちゃったなあ……」
 最後に見たのが泣き顔だったのは、少々残念だった。誰に聞いても泣かせた自分が一番悪いことになるのだろうが、それだけにやりきれない。
「好きな人同士は一緒に暮らすのが一番。
 父様もそう言ってた」
「そうだね。
 でも、すぐには無理なんだよ。
 いや、時間だけでどうにかなるわけでもないけど……」
「人間は難しいのね」
「ほんとにね……」
 世の中が進むと簡単なことほど複雑になるとは、誰の言葉だっただろうか。
 リシャールは、カトレアに嘘をつくのはいやだなあと思っているし、健康になったからと余所に嫁がれても困る。もちろんこのままリシャールがカトレアを嫁にすることは、ラ・クラルテの家格から考えても不可能だった。
 リシャールは、それまでに考えもしなかったような理由で出世しなくてはならなくなったのだ。もちろん、カトレアを諦める気にはなれなかった。最低限でも男爵にならなくては、公爵も首を縦には振ってくれないだろう。
 あれほどの人は、他には誰もいない。一目惚れしたのは間違いではないと、声を大にして言えるほどだ。
 精神年齢は五十をいくらか超えているはずだったが、意外に熱くなっている自分に気付いて、リシャールはくすりと笑ったのだった。

 さて、リシャールが爵位持ちの貴族になること。
 これは、まったくの不可能というわけではない。幸いにして、出自の確かな貴族の血が流れている。
 リシャール自身が爵位持ちになる一番の近道は、伯爵家の外孫であることを活かし、どこかの適当な直系男子のいない貴族家に婿入りすることだ。しかし、リシャールが結婚してしまっては元も子もないゆえに、この案は却下だった。養子という方法もあるにはあったが、婿入り以上に条件も競争も厳しい。リシャール自身の能力よりも、この場合は、売り込みや周囲の思惑、そしてその家中にどれだけ縁があるかが物を言う。
 もう一つの近道は、ゲルマニアで爵位のついた貴族籍を買うことである。これは比較的楽で現実味もあるのだが、別の意味で問題も大きい。
 帝政ゲルマニアでは、多少の審査はあるにせよ、平民でも金銭によって爵位を購うことが出来る。リシャールの場合、ゲルマニアにとっては他国の人間ではあるが、実家は下級貴族で出自もしっかりしたものであったし、彼自身も魔法が使えるので審査は甘くなる。ゲルマニアに忠誠を誓うことにはなるが、金額さえ折り合えばさほど難しいことではない。ゲルマニアの男爵位ならば、多くて数万エキューも支払えばよいはずだった。今のリシャールであれば、数年で用意することは決して不可能ではない。
 ただ、カトレアの周囲から反対されるだろうことは確実だった。そうでなくとも、ラ・ヴァリエールは対ゲルマニア国境の要として、そちらに睨みを効かせる家である。現在は戦争状態になく、融和がどうこうと言ったところで外聞もあるし、それを許すような公爵夫妻ではないだろう。リシャールも進んでカトレアを困らせたいわけではないから、この方法は使えなかった。
 王軍なり王宮の魔法衛士隊なりに入隊し、真面目に功績を積み上げて爵位を得ることも、まったくの無理ではない。リシャールは平民ではなく、下級とは言えど貴族ではあるから、大きなコネはないにしろ実力次第ではそこそこの出世は出来るはずだった。この歳にしてトライアングルという強みもある。ただ、シュヴァリエならばともかく、爵位までとなると余程の活躍が武功が必要となる。退役時に『これまでの忠義と功績に鑑みて』と勲爵士号や準男爵号を授与されても、どうしようもない。もっとも、それでさえ周囲からは相当羨まれる出世ではある。
 楽な道は、どこにもないのだ。

 つらつらと考え事をしながらも夕刻前に王都に戻ったリシャールは、まずは先にとエルランジェの屋敷を訪問した。
「おお、戻ってきたか。
 ……どうじゃった?」
「はい、お祖父さま。
 少しはお役に立てたと思います」
「なんと、本当に治療してきおったのか!?
 よくやったぞリシャール!」
 モリスとしても、かなり無茶な要求をしたことはわかっていたようで、手放しに褒めてくれた。
「ラ・ヴァリエール公は何か仰られていたかの?」
「いえ、特には……。
 でも、毎晩寝酒に呼んでいただけるぐらい親しくしていただきましたよ」
「ほう……。
 公と差し向かいで酒を飲むなどのう。
 案外それが何よりの報酬かも知れんの」
 モリスは笑顔でリシャールを労った。
「リシャール、話は変わるがの」
「はい」
「今月の終いにちょっとした集まりがあっての。
 詳しい日付は手紙で知らせるが、お主にも来て欲しいのじゃ」
「どのような集まりなのですか?」
 リシャールは、少々気後れしながらも聞いてみた。祖父が楽しそうなので、少し心配になったのである。
「ちょっとした社交、というあたりじゃな。
 アルの奴やアルトワ伯も来るはずじゃ。
 なに、足かけ三日もかかりゃせん」
「それならば大丈夫かと思います」
「うむ。
 まあ、それほど緊張するようなものでもないからの。
 身一つでくれば良かろうて」
 煙に巻かれたようで、モリスからは肝心の話の中身を聞くことが出来なかった。
 多少は面倒でも、悪いようにはならないだろうと思うことにする。
 祖父から与えられた面倒事は、今のところ全て良い結果を引っ張ってきているのだ。

 翌日はデルマー商会やコフル商会の王都支店からまわることにした。錬金材料の買い付けやら、ラ・ヴァリエールに送る商品などを手配する。
 午前中にこれらを片付けたあと、午後はのんびりと市場をまわった。久しぶりに商売の種か、珍品でも探そうと思ったのである。残念ながら、東方由来の不思議な品などにはお目にかかれなかったが、活気があって気持ちのいい市は、リシャールを気分よくさせてくれた。
 満足したリシャールは、既に王都での常宿となっている魅惑の妖精亭へと足を向けた。
「まあ、お見限りじゃないのリシャールちゃん」
「お久しぶりです、ミ・マドモワゼル」
 スカロンの熱烈な歓迎にたじたじになりながらも、部屋を取って貰うことにした。多少は商売も軌道に乗ったことであるしと、食事付きで小さい個室を借りる。
「どうですか、魚の方は?」
「上々ね。
 お客様からの評判もいいわよ。
 ウフフ、うちだけなのよ」
「何がですか?」
 イワシの油漬けは、既にラ・クラルテ商会だけのものではない。市場でも見かけたが、ギーヴァルシュ産のものだけでなく、他の沿岸地域からの品物も王都には入っている。
「きちんとリシャールちゃんから料理の手ほどきを受けたお店はね、王都にはここしかないのよ?
 それにうちのコックさん達も張り切ってるわ。
 少々のことで評判は揺るがないわよ」
「なるほど……」
 確かに食材は売っているが、レシピを提供した店はここだけである。エルランジェ伯爵家を初め、リシャールに関係した貴族家の料理長には同じように手ほどきをしたが、その他の店や料理人は、いかに良い食材ではあっても試行錯誤から始めねばならないから尚更だった。
「そういうわけでね、リシャールちゃんにはとても感謝しているわ」
「うぐっ!?」
 気付いたジェシカに助けられるまで、リシャールはむぎゅっと力一杯熱烈な抱擁をされ続けた。

「ごめんね。
 大丈夫だった?」
「ああ、うん、なんとか……」
 ようやくスカロンから解放されたリシャールは、店の隅っこの席でジェシカから冷たい水を貰っていた。
「ね、そういえばずいぶん久しぶりだけど、ずっとお仕事だったの?」
「うーん、半分仕事かなあ。
 ずっとね、さる貴族様のお屋敷にいたんだよ」
 皆まで言えるようなことではないので、適当に答えることにしておく。
「え、商売の方はどうしてたのよ?
 あなた、会頭でしょ?」
「会頭代行が優秀だからね、全部任せてるよ」
「呆れた。
 その歳でもう悠々自適?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「そこだけ聞くと、そう聞こえるわよ」
 確かになあと、頷かざるを得なかった。断れない相手からの求めではあったが、本業を放って別のことをしていたのも事実であった。
「まあ、いいけどね。
 ちゃんとうちには商品も届いてたし、品質も変わっていないわ。
 でー、もー、リシャールくんはお仕事もせずに、貴族様のお屋敷でのんびりしてた、と」
「のんびりはしてなかったよ」
「そこのお屋敷のお嬢様に、一目惚れしたりとかしなかった?」
「ちょっ!?」
 リシャールは、この店でかつて見せたことがないほどに慌てた。ジェシカは女の勘か、ぴたりと正解を引き当てたのだ。
「え、うそ!?
 本当に!?
 ね、どんな人なのよ?」
「わー、たんまたんま!」
「んふふふ、リシャールは大物ね。
 身分違いの恋ってやつ?」
 ジェシカの追求は止まらない。タニアっ子は他人の恋愛話にも逞しいのだ。
「ジェシカ、勘弁してよ」
「でも片思いじゃ辛いわよね。
 わかる、わかるわあ。
 片や貴族のお嬢様、片や新進気鋭の商人とは言え、身分の差は天地ほど。
 ああ、諦めきれぬ恋ならば……」
「あー、ジェシカ。
 盛り上がってるところ悪いけど……片思いじゃないから」
 リシャールは真っ赤になりながらも、ここだけは否定しておこうと思った。でないとカトレアに申し訳がない。
「はあ!?
 ……リシャール、あなた本当に大物だわ」
 ジェシカは心底こそ呆れたと言うように、大きなため息をついた。







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