ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
挿話その六「聖なるかな、聖なるかな」




 その日、シュレベールの村長ゴーチェは嫁いでいった娘の顔を見るついでに、香草や山菜などを積んだ荷馬車で隣村ドーピニエまで足を伸ばしていた。鉱山の他には大して収入源があるわけではないシュレベールにとっては、糊口をしのぐ大事な品々であった。
 暫く前に王領から男爵領に変わって、生活は随分とましになった。年若い領主は気弱そうで繊細な見かけに反し、決断力もあって篤実で、こちらが何か言う前に税率を下げてくれたし、沖合で船が沈みそうになった時には、率先して救助に当たっていたそうだ。少なくとも男爵領になって以来、村には夜逃げの相談をするような者はいなくなった。村の人口は新しく鍛冶工房が作られた分、増えているほどだ。
 村人の生活は、仕事が増えたことで確実に向上した。領主の館などは最たるものだろう。村娘達は、これまでの内職や畑仕事では考えられない額の現金収入を得ているらしい。聞いた話では忙しくはあるが比較的締め付けは厳しくないようで、時には領主と同じテーブルで、マナーを躾けられながらも上等な食事を頂戴できるそうだ。
 相変わらず変わっているなと考えながらもゴーチェは思い出した。そういえば、領主様はこっちに来てばかりの頃、うちのかかあのメシを旨そうに食ってたな、と。
 相変わらず、平民と同じ席で食事をなさってるようだ。
 変わっていない変わり者。だが、悪くない。
 それが新領主、リシャール・ド・セルフィーユ男爵に対するゴーチェの評価だった。


「久しいな、ドーピニエの」
「おお、シュレベールの」
 ドーピニエの村長ダニエルは、朝の草取りの最中に荷馬車に乗ったシュレベールの村長の姿を街道に見つけた。荷台を見るに、いつもの香草や山菜らしい。代わりにドーピニエからは現金か麦束が運ばれていく。
「おっと、今はセルフィーユだったか」
「セルフィーユで間違いないんだが、村の名前はそのままだぜ」
「ああ、ラマディエもセルフィーユだったか」
 隣の王領は合併して、新しく男爵様がやってきた。まだ十三の子供と聞いているが、知恵も財力もあるらしく、ゴーチェの話では村の様子もずいぶんと上向きだそうだ。
「あっちも街の名前はそのまんまだ。
 俺もどっちかはセルフィーユになると思ったんだがなあ。
 領主様の館のあるお膝元としての意味でシュレベールか、港もあって人口も多いラマディエか。
 リュカの奴とも賭けてたんだが……お流れんなった」
「そりゃ残念だな」
「はん、損はしてないぜ?」
「違いない。
 ……ところで、荷の方はどうする?
 麦か、現金か?」
 ダニエルはゴーチェの荷馬車に勝手に乗り込んだ。ゴーチェも何も言わない。いつものように、村まで戻って取引をするのだ。
「そうだな……どっちでもいい」
「麦でなくてもいいのか?
 言っちゃあなんだが、そっちも不作だろう?」
「まあな。
 しかし、ドーピニエもそれなりに大変だろう?」
「……まあ、な」
 正直言えば、麦を売り渡すのはかなり苦しい。税を納めれば、自分たちが食べるのにも苦労するだろう。特にここ数年は、作柄は酷くないものの厳しい状況が続いている。税が更に上がってきたのだ。
 だが、隣村として持ちつ持たれつしてきた彼らの関係として、シュレベールを蔑ろにすることは許されるものではなかった。
「まあ、ぶっちゃけると領主様がな」
「うん?」
「飢えは何とかすると仰って下さったんでな。
 毎日毎日ビール麦の粥になるかもしれんが、少なくとも飢え死にしないようにはして下さるそうだ」
「そうか、羨ましい限りだな」
 当たり前だが、ドーピニエの代官はそのようなことまではしない。
「そういうわけでな、麦でなくともいいんだ」
「すまんな」
 うちも領主様とやらの恩恵に与るかと、ダニエルはため息を吐いた。シュレベールに麦を出さなくても良くなっただけでも、ありがたい事だった。麦を借りる算段を付けて置かなくてはならないのには変わりなかったが、それでもいくらかましにはなる。
 うちの代官も隣の男爵みたいなのと取り替えてくれと、お上に言いたいところであった。


 朝の課業を終えたドーピニエの司祭アミントレは、いつものように村を散歩していた。借り入れの終わった麦畑は少々寂しい風情ではあったが、収穫への感謝と次の豊饒を願って、聖印を切ることにする。
 赴任より早十数年、決して豊かではないこの地だが、それでも司祭としてアミントレは満足を覚えていた。この地に住まう彼らは皆、敬虔であったからだ。純朴と言い換えても良い。
 政争となんら変わりのない、信仰の心をどこかにおいてきたような内情を持つロマリア本国に比べれば、ここは理想郷であった。
 きらびやかな衣装で着飾った宗教庁の司教や枢機卿どもよりも、ここの人々の心はその数倍は輝いて見えた。本当に素晴らしいことである。
「司祭様、おはようございます」
 馬車の音に顔を上げると、御者台に隣村のゴーチェの姿を見つけた。アミントレにとっては住む場所がドーピニエでないということ以外は、村人達となんら変わりのない愛すべき隣人でもある。近隣の村々で教会のない場所に住む者への祝福も、アミントレの大事な役目であった。今日も、いつものように山菜などを卸しに来たらしい。
「ゴーチェ殿、今日はお早いですな」
「はい、村の為でもありますが、こちらにいる娘の顔を見るのも楽しみなものですから」
「ご家族を大事になさること、それは実によいことです」
 アミントレは笑顔で頷いた。
「そうだ、司祭様にも一つご用がありました。
 少しお話を聞いていただけますか?」
「ほう、何でしょうか?」
 農閑期などには巡回司祭のように近隣の村々を回ることもあったから、そのことだろうかとゴーチェの言葉を待つ。
「実は、新しい領主様が、教会の建物を修理して下さいまして……」
「ほう、ほう!
 それは大変喜ばしいことですな。
 敬虔な領主様を使わして下さった始祖に、大いなる感謝を……」
 アミントレは、ゴーチェの言葉を驚きをもって受け入れた。
 数年前にシュレベール周辺をまとめていた司祭は、老衰のために亡くなっていた。歳は離れていたが、アミントレとも深い親交があった人物である。彼もアミントレと同じく教会の腐敗に疲れ果て、この地に来て人々に癒された人物だった。亡くなる前に、シュレベールのことをよろしく頼むと言われていたことは、深く心に刻み込んである。
 しかし、継ぐ者もいない教会は、当然のように荒れ果てていった。アミントレも心を痛め、この周辺を管理するトリスタニア大司教区の本部に幾度か訴えを送っていたが、未だに人手不足以外の返事はない。田舎の教会ではなり手がいないことも間違いないのだろうが、司祭でなくとも、助祭であれシスターであれ、誰か支柱となる人物があれば、人々と信仰を結ぶ教会としては機能するのである。同じ聖職者として、トリスタニア大司教区の対応は情けない限りであった。
「ええ、本当にありがたいことです。
 それでお伺いしたいのは、どうすれば新しく司祭様をお迎えすることが出来るのか、ということなのですが……」
「そうですな……」
 いっそ、ロマリア本国から直接派遣して貰えはしないだろうか。トリステインでは聖職者不足で困っておりますとでも書けば、角が立つこともあるまい。なに、誰も派遣されてこない教会の司祭の席が一つ埋まったところで、何も言えまいて。
「まずは私が手紙を書いてみましょうか。
 よい人を紹介して貰えるように頼んでみましょう」
 トリスタニアからの返事は梨の礫であるとは口に出さない。ゴーチェにいらぬ心配をさせることはなかった。
「おお、ありがとうございます、司祭様」
「いえ、これも大事なお務めですからな」
 いやしかし、教会堂の再建は本当に喜ばしいことだと、アミントレは再度、始祖ブリミルへの感謝を捧げた。

 教会に戻ったアミントレは、すぐにロマリア本国にいる旧知の枢機卿へと手紙を送るべく、筆机に向かった。
 ここに赴任する時にも世話になった相手だ。悪いようにはしないだろう。
 願わくば、土地の者を愛し、土地の者から愛される者がこの地に導かれますよう。聖なるかな、聖なるかな。
 アミントレは手紙に封をする際に、もう一度聖印を切った。


 数週間後、アミントレの手紙はロマリアに到着した。
 但し、手紙を開封したのはアミントレの望んだ相手ではなかった。かの枢機卿は、数年前に病で帰らぬ人となっていたのだ。
 代わりに封を開けたのは、後任の司祭枢機卿ヤコポ・アゴスティネッリだった。彼にとっては下らぬ内容の手紙ではあったが、政敵の排除にそれを利用することを思いつき、懐へと大事にしまい込んだ。
 手紙は、彼より更に数名の手を渡り、ロマリア北部にあるファエンツァの街へと運ばれた。

 ファエンツァの司教アンブロジオは、ヤコポ・アゴスティネッリからの使者が置いていった手紙を見つめながら、ため息をついた。
 彼はこの手紙がここに運ばれてきた意味を、ほぼ正確に推察している。
 手紙自体は、現地の司祭が善意でもって宗教庁へと送ってきたものであろう。
 ただ、合間にアンブロジオをも含んだ派閥間の対立が絡んで、少々ややこしい話になっただけなのだ。おかげで、アンブロジオの管理下にあるはずのファエンツァ司教区の教会に、対立派閥の司祭が送り込まれることになった。こちらからは代わりに一人、手元で育て上げた貴重な司祭をトリステインの田舎町に送り出さねばならない。
 足元を固めねばならないこの時期、手痛い事である。誰も口には出さないが、教皇選挙が近いのだ。現教皇はかなりの高齢で、いつお隠れになられても不思議はないと噂されている。
 アンブロジオは、再び手紙に目を通した。

 数日後、一人の老いた司祭がアンブロジオの元に呼び出された。
「司教猊下、久方ぶりでございます」
「クレメンテ司祭もお元気そうでなによりです」
 二人の力関係は、非常に微妙でもあった。位階ではアンブロジオが勝るが、影響力は老いたりとは言えクレメンテの方が一つ抜きんでていた。同じ派閥とは言っても、アンブロジオにとっては少々煙たい存在でもある。
 クレメンテは新教徒とも噂される人物だった。
 しかしその根拠はどこにもなく、これまで宗教庁の手が伸ばされることもなかった。故に単なる噂か揶揄の類であろうと、アンブロジオは見ている。新教徒を何年も見逃すほど宗教庁は甘い存在ではないことを、アンブロジオはよく知っていた。
「クレメンテ司祭、まずはこちらの手紙をご覧下さい」
 アンブロジオは、アミントレからの手紙をクレメンテに示した。
「トリステインのとある司祭からの手紙ですが、どういうわけか宗教庁から差し回されてきましてな」
「ほう?」
「この司教区から一人、司祭を回さねばならなくなりました。
 ついては、そちらからからよき人を推薦をして戴けぬかと思いましてな」
「なるほど……」
 言葉は飾ってあるが、クレメンテの身内から一人差し出せと言っているに等しい。無論、クレメンテにもわかっている。それでもクレメンテは手紙を一読し、アンブロジオに向き直って一礼した。
「委細承知いたしました。
 すぐに手配を致しましょう。
 遠き地の敬虔なる者達に、始祖ブリミルの御加護が届かんことを」
「始祖ブリミルの御加護を。
 クレメンテ司祭、よろしく頼みましたぞ」
 クレメンテは余計な事を口にせず、アンブロジオの元を辞した。

 自身の管理するファエンツァ東教会へと戻ったクレメンテは、井戸の水で顔を洗った後、自室へと戻った。
「あ、クレメンテ様、お戻りになられていたのですか?」
「ああ、ただいま、フィオ」
 自室では、同じく教会に住むシスター見習いの出迎えを受けた。どうやら、彼の部屋の掃除を引き受けてくれていたらしい。孤児として幼い頃に引き取られてきたフィオレンティーナは、この教会で育てられた。クレメンテにとっては子供か孫のような存在でもある。
「あの、なにか困ったことでもあったのですか?」
 顔に出ていたかと、少し気を引き締める。
「うむ、少し遠いのだが……こちらから一人、トリステインの教会に司祭を派遣するという話があってな……。
 帰る道すがら、誰にしようかと迷っていたのだよ」
 彼の身内、会派に所属する司祭は彼を含めて七名。うち四人は教会を任されているから、残り三名のうちから一人を選んで送り出さねばならない。
 しかし、誰を送り出すべきか。
 
 彼は巷間の噂通り、本物の隠れた新教徒であったから、様々な意味でも正念場でもあった。

 新教徒。
 彼らは実践教義と呼ばれる教義解釈を主軸に据えた、原初的信仰に立ち返ろうとするブリミル教の一派であった。
 現世的な俗欲にまみれた教会中央の腐敗に対して不審を抱き、またそれ故に異端視されて宗教庁による苛烈な弾圧を受けた過去があり、表向きは廃された一派でもある。
 しかし、それを経て尚、異端審問から逃れ、隠れた信仰を続けていた者達もいた。彼らは他国に逃れる同じ新教徒の支援を物心両面で行いつつも、ロマリア本国に留まることを選んだのだ。皮肉にも、ロマリア国外に逃れた者の大半が非業の最期を遂げる中、彼らは心中で血涙を流しつつも堪え忍んだ。
 クレメンテもそのような者の一人だった。かつては宗教庁上層部や枢機卿団に名を連ねるのも時間の問題とされるほどの立場であったが、実践教義との出会いが彼を変えた。
 それまでは天職として生涯を投じるに相応しいと思われた始祖ブリミルの足跡の『研究』に、意味を見いだせなくなったのだ。始祖ブリミルの教えに対しての疑念はないが、『研究』するとは何事かと、自らを恥じたのである。
 以来彼は、生活のの中に自ら信仰の意味を見出した。
 日々の糧への感謝、教会を訪れる人々との出会いへの感謝など、彼の周囲は様々な『感謝』で溢れていた。これぞ、始祖ブリミルの与え給うた教えであり、御加護ではないだろうか。
 彼はそのことに気づき、新教徒であることを隠しつつも、ひたすら自らの感ずる始祖への感謝に忠実であろうとしてきた。これまで異端審問を逃れられたのは、同じ新教徒だけでなく、彼を評価する様々な人々による有形無形の支援が上手く回った上に、運が良かったからに過ぎない。
 もちろん、クレメンテにも迷いがあった。
 自身の影響力は、志を同じくする人々の盾とならねばならない。
 だが若い者達も、いつまでも老人の庇護を受けている雛鳥ではいられまい。
 それに、トリステインならば……。
 クレメンテは決断した。

 ヤコポ・アゴスティネッリは上機嫌だった。
 まわりまわって話を持ち込んできたクレメンテ司祭は切れ者であったが、やはり過去の人物であるとアゴスティネッリは確信したからだ。
 その彼がロマリアを去ることで幾ばくかの『資産』が引き継げるとあっては、上機嫌にならざるを得ない。彼と懇意の数名、特に一人の枢機卿がアゴスティネッリ側に靡いたことは重要であった。教皇選挙も近い今、これは大きい。
 数日前、ロマリア宗教庁本部の教区を管理する会議で一つの決定が為されたが、会議に参加したアゴスティネッリら数名による熱心な根回しもあり、特に大きな混乱もなく会議自体は終了した。多少の禍根は残っていたが、いつものことで特に問題なし、というあたりだろうか。
 直後にロマリア各地やトリステインに向けて使者が送られたが、直接の関係者を除いては、驚かれることもなくその決定は受け入れられた。
 アゴスティネッリは、祈りよりも権力闘争に重きをおく人物であると周囲からも知られていたが、その彼が上機嫌でいることで、何かあったのかと人々は様々な憶測を噂した。
 聖なるかな、聖なるかな、これぞ始祖ブリミルの御加護と、熱心に感謝するアゴスティネッリなど、誰も見たくなかったのである。

 ヤコポ・アゴスティネッリらが参加した会議が終了してから更に数日。
 アンブロジオは内心の笑顔を隠さぬままに司教杖を掲げ、新しい司祭の叙階式を執り行っていた。
 新しい司祭を任命することは確かに喜ばしいことであったから、彼だけでなく、他の参列者も笑顔である。但し、アンブロジオの笑顔の真の意味を見抜いた者はここにはいなかったが……。
「イタロ助祭、貴方を司祭に叙階し、ファエンツァ東教会をお任せします。
 あなたに始祖ブリミルの御加護を」
「非才の身ながら、謹んでお受けいたします。
 始祖の御照覧に恥じる事なきよう、精進いたします」
 アンブロジオが驚いたことに、クレメンテは自らがトリステインに赴くと言い出した。彼は派閥抗争に疲れ果て、心が折れたのであろうか。元は中央で活躍し、才走った者として知られていたクレメンテももう歳なのだろう。
 代わりにと推薦されたのが、目の前にいる若者だった。彼はまだ若く、クレメンテほどの力量は無い。そう言った意味では、司祭に位を引き上げても問題とはならなかった。外の派閥に対しては、大して影響力を見せなかったクレメンテの会派である。取り込みは無理でも、害にはなるまい。
 それに、クレメンテはとんでもないことをやってのけた。置き土産と言うほどでもないが、影響は大きい。但し、アンブロジオにとっても悪い話ではなかったから、珍しく真剣に後押しをした。自身の司教区内では教会の司祭席を一つ失ったものの、自身の派閥内での影響力の強化やクレメンテのことを考えれば、十分に利はあったと言える。
 アンブロジオは新しい司祭に向き直ると、再び笑顔になった。

 同じ頃、ファエンツァを離れる一台の驢馬車があった。
 手綱を取っているのはクレメンテ自身である。荷台には幌の代わりに獣脂の塗られた帆布を掛けられ、僅かばかりの荷物が積まれていた。
「巡礼の旅とは逆の方向になるのですね。
 トリステインまではどのぐらいかかるのでしょう?」
「そうだな、順調に行けばひと月ぐらいだろうかな。
 北の方だと聞いているから、トリステインに入ってからでもかなり距離があるかもしれない。
 そうだ、トリステインの宰相は、ロマリアから赴かれた枢機卿猊下でいらっしゃるのだよ」
「まあ、すごいのですね、その方は」
「ああ……とても敬虔で、真面目なお方だよ」
 御者台の隣に座るフィオレンティーナに相槌を打ちながらも、彼女には少し申し訳ない気分でもある。
 フィオレンティーナは、クレメンテが新教徒であることを知らなかった。そして、フィオレンティーナ自身がその教えを色濃く受け継いでいることも、その両親が新教徒であったことも、彼女は知らなかった。それ故にクレメンテは、彼女だけは連れて旅だったのだ。
 仲間達や派閥の者には、かなり強い調子で引き留められもしたが、自身の思いつきを一部うち明けたところで、仲間は皆クレメンテを支持し、協力を約束してくれた。
 クレメンテには一遍の後悔もない。
 種も蒔いた。
 後は蒔いた種が育つのを待つのも良かろう。
 それに、トリステインでは大仕事が待っている。その要求を宗教庁上層部に飲ませるのには骨も折れたが、自身のトリステイン行きを周囲に理由づけるのには十分過ぎる効果があった。むしろ、数日でその方向に話が傾くとは、仕掛けたクレメンテの方が驚いたほどである。
 本来なら数ヶ月数年の時間がかかっても不思議のないことだったが、何が幸いするかは、わからないものである。
 それらの手配りを全て終えたクレメンテには、一つの望みがあった。

 それは、自らの信ずるままに信仰の道を歩むこと。
 そして、あちらこちらに散らばる新教徒達を、影ながら支えること。

 願わくば、新天地セルフィーユで良き感謝に出会えるよう。聖なるかな、聖なるかな。
 クレメンテは聖印をひとつ切ると、まだ見ぬ土地のことをあれこれ考えつつも、フィオレンティーナが退屈をしないようにと、自らの知るトリステインについての話を続けるのだった。






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