ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第五十六話「追い風」




 感謝祭に遊びに来ていたルイズを送り出してからも、カトレアの体調は数日の間戻らず、リシャールらを心配させていた。
「リシャールのお手伝いもしたいのだけれど、元気になってからにするわね」
「うん、今は体をいたわるのが一番だよ」
 特にリシャールは、昼間は領主だの土木魔術師だの錬金鍛冶師だのの仕事に追い回され、カトレアの側にはなかなかいることが出来なかったから尚更だった。
 今も彼は、港の拡張工事に追われていた。
 それでも家臣団だけでなく、新たに領内に住むことになったメイジ達を雇い入れて動員出来るおかげで、少々費用が嵩みはするものの、急ぎの工事などにも対応が出来るようになったことは幸いだった。
 領内メイジの総動員は、その実力を計るためでもある。自然災害などへの緊急対処はやはりメイジ頼りにならざるを得ないので、突貫工事というかたちでその力を存分に振るって貰ったのだ。
 今は従来からあった桟橋の長大化と付近の浚渫、以前に手を着けていなかった側の暗礁の撤去、製鉄所桟橋の新設、そして空中船舶用の簡易桟橋と風石補給所の建設が行われている。
 空を行くフネがつかう設備の方はおまけ程度であったが、浚渫の方はこれまで五十メイル級の船が限界であった港の収容能力を、一気に百メイル級の大型船でも接岸できるようするものであった。
 これは鉄の買い取りを任せているセルジュから、重い鉄や石炭を積載能力の低い五十メイル以下の小さな船でちまちまと運ぶよりも、大型船で一気に運んだ方が費用が安く済むので港を広げて欲しいと意見があったためである。リシャールの方でも港の拡張は遅かれ早かれ手を着ける予定であったし、運送費用の圧縮という点は見逃せなかったので、集合住宅の整備が落ち着いてすぐに手を着けたのだ。
 この工事が終われば、百メイル級の船を四隻同時に接岸できるようになり、セルフィーユは西にある河口の街リールを上回る、トリステイン北東部一の港となる予定であった。
 新教徒には、メイジや知識層が多かった。そうであるからこそ、ロマリアの聖職者達の腐敗に疑問を抱いたのであろうとリシャールには思えたが、ありがたいことでもある。多少の問題は目を瞑っても良いほどに、彼らの力は有為なものだった。

「リシャール様、これが最新の報告です」
「ありがとう、マルグリット」
 午後の遅くになって港の工事が一段落すると、庁舎に戻って仕事をするのがリシャールの日課だった。
 今マルグリットから手渡されたのは、新しく作成をさせていたセルフィーユの統計である。急激な人口流入とそれに続く混乱で、それまでの資料がほぼ意味を為さなくなったのだ。
「このひと月で、人の数が倍以上になっていますわ。
 クレメンテ様のお力には驚くばかりです」
 リシャールは新教徒のことは伏せて、人を集めるのにクレメンテに助力を願ったとだけ、マルグリットらには伝えていた。秘密を知る者は、少ない方がいいに決まっている。余計な心労をかける必要はなかった。
「ここまで急激に人が集まるとは、流石に想像していませんでしたけれどね。
 働き手の問題は、あっと言う間に逆方向の問題になりましたし……」
 人手が足りないと騒いでいた先月と比べ、今は雇用の創出に頭を絞っている。建設工事などの日雇い労働はカンフル剤としてはとても有効であるし、今のセルフィーユには必要なことでもあった。
 ただ、領民が安定した生活を送ることは税収や治安に直結しているから、リシャールも本腰を入れていた。
「概算ですが、今年の税収は少なくとも昨年の三倍には達すると思われます。
 ただし、子爵家とラ・クラルテ商会からの持ち出しや人件費を考えますと、限界を越えていますわ」
「錬金鍛冶を止めると、連動して我が家の身代が潰れますねえ……」
 かと言って、最大の支出要因である街道や港湾の工事を差し止めれば仕事にあぶれた者達が飢えてしまうし、王政府の命にも逆らうことになってよろしくない。新しく開墾した農地にも人を集めてはいるが、収穫が出来るようになるまでは彼らも日雇いなどで自らを養わなくてはならなかった。
 子爵家の方も、領民には言えないがかなり苦しい。
 月々の商税収入は大幅に増えていたが、高給取りのメイジを多数雇ったこともあって、子爵家家臣団に加えて城や領軍の維持費用まで引くと、先月は五百エキューほど足が出ていた。
 ラ・クラルテ商会は、海産物も製鉄もすべて引っくるめれば月々一万エキュー近い利益を上げていたが、街道工事の方に半分以上が吸い取られている上に港湾工事の費用も押しつけていたから、こちらもやはり赤字である。
 幸いなことに、月々の持ち出しは数千エキュー程度であったから、リシャールが錬金を頑張ればど                      うということはない。しかし、健全な財務状況とはとても言えなかった。年四万エキューの返済も考えなくてはならない。
「焼け石に水かもしれませんが、現状で三組ある製鉄所の炉を早期に増やすことにして、ついでに兵器工場で雇う人も増やしましょう。
 他にも、打てる手は打たないといけませんね」
「前に仰られていた、生け簀の方はどうしましょうか?」
「あー、それもありましたね……」
 油漬け製造の時に出る骨や頭の処理に、生け簀をつかって魚に食べさせてはどうかというアイデアを思いついたのは、かなり前のことだった。しかし今のところは目処が立たず、それらは漁師が撒き餌に使っている。
「新しい開拓地のそばに、漁港を作っても良いかもしれませんわね」
「いっそひとまとめにして、新村にしてしまいましょうか。
 集住するなら、面倒も少なくなりますし……」
 新開拓地はラマディエの北側、領地の境に近い場所に作られつつある。比較的平坦な土地だが雑木林の覆われており、以前は亜人が出ることも多かったので人の手は入っていなかった。
 しかし、セルフィーユ領になってからはアーシャが領内を縄張りにしたことで、亜人の心配はほぼ皆無になっている。人が増えた今、開墾しない手はなかった。
「ラマディエの漁業関係者全員に引っ越して貰うわけにもいかないですが、交代で教え手を派遣して貰っても良いかも知れませんね」
「農地の方はイジドール氏らにも出て貰っていますし、同じように致しましょうか?」
「そうですね。
 ああ、農地の代わりに漁船も必要になりますね。
 小さい物なら高くても一艘数百エキューでしょうから、こちらで何艘か調達して貸し出すことにしましょうか。
 操船や網の扱いを覚えるまでは仕事にならないとは思いますが、開拓地組の皆さんと同じく生活には配慮することにしましょう」
 いきなり漁師になれと言うのもどうかとは思うが、生活の場を提供するという点では、選択肢が増える。
「生け簀の方は、徐々にでも形になればいいでしょう。
 悪天候で船が出せなくても、魚が市場に出せるようになることは見逃せません」
 生活の安定に寄与することは間違いない。加工品と同じく、食品としての寿命が伸びたことになるからだ。
 ただ、単に生け簀を設置しても、かかる費用の割に効果は薄いかもしれなかった。セルフィーユだけで消費するなら、ここまで大仰でなくてもよいような気もする。
 だが、新しい商売のヒントになりそうな気もするのだ。
 リシャールは漁村の開拓にも、少し多めに費用と手間を投じてみることに決めた。

 政務を終えて城に戻ったリシャールは、カトレアを見舞ってから食事を摂り、後は眠るまで鍛冶場に篭もるのが日課になりつつあった。大物を作る暇はないが、鉄兜や『亜人斬り』ではない鉄剣などの小物なら、十分に作る時間はあるのだ。
 刃鋼が手に入るようになってからは、時間も魔力も節約できるので、作業の進みも早い。
「しかし……」
 鍛冶仕事の合間には、色々と考えることも多かった。
 特に新教徒の流入で人口が倍増してことは追い風にもなっている反面、セルフィーユの社会構造が急激に変化しているのであれこれと悩みも増えている。
 住居の問題は、集合住宅を大量に建設したことで一応の解決を見たが、しばらくはそれで我慢してもらうにしても、今後はラマディエ周辺だけでなく、セルフィーユ中に多数の一戸建てを含めた住居を建築せねばならない。
 彼らが生活する上で必要な職についても、日雇いの比率があまりにも高いことは問題だった。全てを子爵家で用意出来るわけもないが、クレメンテとの約束もあり、こちらも可能な限りは手厚く保護する必要があった。最終的には税収の増額にも繋がるから、リシャールにも否はない。
 幸いなことに、旧住民らとの軋轢は殆どなかった。むしろ、彼らが本来持っていた仕事が好景気によって忙しくなり、下働きが必要なほど仕事も収入も増えていたから歓迎されているふしもあった。
 リュカは息子を一人立ちさせて店舗を増やしたし、ゴーチェも鉱山で雇う鉱夫を増やした。ドーピニエのダニエルなども、リシャールから借りた豚や牛などを世話するのに、畑を置いて出稼ぎに出ている村人をそのまま呼び戻さず新たに人を雇ったほどである。
 リシャールも新たに子爵家へと多くの人々を雇い入れていたから、家臣団とラ・クラルテ商会の再編成も行いたいところであった。今はせっかく雇い入れたメイジも、単なる魔法の使える働き手としてしか活用していない。しかし、中には他家で重要な役回りを任されていた元家臣や傭兵経験のあるメイジも含まれていたから、仕事の内容や組織そのものも含めて検討する必要があった。
 可能ならリシャール自身が行っている裁判なども、三審制は無理でも二審制か、少なくともリシャールに対して控訴出来るようなワンクッションを置いた司法制度の取り入れを計りたいところであった。軽犯罪などに時間を取られ過ぎるのも困る、といった実務面での要求もある。軽い罪なら判例を元に判決を下すこともできるし、調停ならば双方が納得できるように話し合いをさせることが第一である。それに、いかに領主の義務でもリシャールが全てを取り仕切るのは、今後不可能になる可能性もあった。落ち着いたとは言え、人口は今も増え続けているのだ。
 要は国王と法院の関係を、セルフィーユにも持ち込もうというのであった。王政府では、王の権利のうちの司法に関する権限を法院に委譲し、職務として事に当たらせている。国王不在のトリステイン王国であるが、司法についてはこの法院のお陰で極端な問題が出ていなかった。そもそも、国王は一々食い逃げの裁判を取り仕切ったりはしない。もちろん叛乱や諸侯同士の調停など、大きな問題には国王自らが乗り出さねばならないが、その様な問題には貴族院や王政府が代わりに乗り出してくる。
 リシャールも領地を揺るがすような大きな問題以外は、人に任せてもよいと思っていた。今のままでは自身の限界も近い。
 空いた時間で領地の舵取りに専念するにしろ、錬金や土木工事を行うにしろ、多少なりとも余裕が欲しいのだ。
「はあ、今日はこんなものかな」
 考え事をしながらも、今日の作業で作り上げたものは鉄剣が三本に小降りのナイフが三本。先月までは人の増えた領軍用の武器や防具を作っていたが、こちらは売り物である。
 ラ・クラルテ商会も、領内に店舗を出したのだ。兵器工場で僅かばかり量産されてくる銃の方も扱っている。今のところ売れ行きは芳しくないが、無理に王都へと売りに出すこともなくなった。『亜人斬り』はともかくも、今後は在庫が過剰になって余った分だけを大口で卸せばいいだろう。
 日々の積み重ねが内職ではしまらないなあとは思いながらも、手を休めるわけには行かないのだった。

 そのようなことを考えてから数日を置かず、リシャールは子爵家全体の再編成に手を着けた。この人口の急激な増加という追い風には、上手く乗っておかなくてはならない。
 しばらくは混乱することも予想されるが、以前のままでは早晩処理能力が破綻することも確実だったのだ。
 まずは庁舎及び家臣団であるが、筆頭家臣のマルグリットはそのままに人数も増やして行政と司法の責任者を新たに任命し、シュレベールとドーピニエ、そして開拓された新村『ラ・クラルテ』に支庁を置いた。
 城の方は大きな変化こそなかったが、新たに水のメイジを雇い入れ、リシャールやカトレアだけでなく使用人達の健康管理にも気を配らせるようにした。リシャールの母エステルが、アルトワで行っていたことでもある。
 領軍の変化が、一番大きいかも知れない。人数は四十人少々とアルトワとほぼ同規模にまで拡大されたが、これは新たに設けた支庁へと警察組織の派出所的な意味合いで兵士を常駐させることに決めたことの他にも、兵器工場の警備に人数を必要とした結果でもある。これまでゼロであったメイジの数も、いきなり五人と強力な布陣になったから、リシャールとアーシャ抜きでも亜人の小集団ぐらいなら駆逐できるはずだった。そろそろ、本格的な討伐を意識した編成も考えなくてはならないだろう。いまはアーシャの縄張りの上にあぐらをかいているが、必ずアーシャとリシャールが動けるとは限らない。
 一方、ラ・クラルテ商会の方は、製鉄と兵器をフロランに一任しているのは変わらなかったが、メイジを数名雇い入れたことでリシャールはほぼ手を引くことが出来るようになった。民需向けの鉄製品はディディエに、海産物加工場は責任者こそ別においたもののマルグリットに任せきりである。その上気が付けば、企業城下町という言葉が洒落にならない、日雇い労働者まで数えれば数百人を雇用する、巨大な商会へと変貌してしまっていた。
「ここまでにする予定じゃなかったんだけど……」
 生活の場を提供したことも間違いないが、より効力のある支配体制を確立したと言えなくもない。
 セルフィーユには今後も伸長を続けて貰わねばリシャールが困るのだが、その構造が少しいびつでもあるとも思っていた。彼の感覚では、領地も領民も子爵家に寄りかかりすぎているのだ。
 それは、ハルケギニアでは当たり前の構図でもある。領主とは、領民を支配する者であるからだ。身分の差も支配も当たり前で、誰も疑問は抱かない。そのように社会全体も動いている。
 ただ、リシャールを領主として戴くことに、領民の誰一人困ってはいなかった。
 リシャールが領主になって以来、領民の生活も向上し、税も周囲に比べて安くなった。セルフィーユ成立以前からここに住んでいた者たちは、前のような状態に戻りたくないと真剣に考えている。一方、新教徒には安住の地と普通の生活を約してくれた領主であり、それは違えることなく実行されていた。双方ともに感謝こそすれ、文句の出ようもない。領民達にとっては、リシャールを領主と仰ぐこの状態こそが最良なのだ。
 ただ、前世を専制君主制ではない現代日本で過ごしたリシャールがその事に気付くのは、もう少し先になりそうだった。

「はあ、歓楽街……ですか」
 マルグリットからの報告を受けたリシャール、とても微妙な表情になった。
「はい、新しい市街できた酒場や宿屋なのですが、その、非常に申し上げにくいのですが……」
「あー、『綺麗なお姉さんのいるお店』、ですか。
 それも、魅惑の妖精亭よりもずっと過激な?」
「は、はい、そうです。
 他にも、賭博場の併設されている酒場などがあります」
 真っ赤になって報告するマルグリットを珍しく思いながらも、流石に妙齢の女性にいわせる台詞ではないなと、リシャールが後を引き取った。
「建物とかはどうしたんでしょうね?
 まだそちらに余力を割けるほど、メイジが余っているとも思えませんが……」
 リシャールの把握している限りだが、領内にいるメイジのは殆どが彼が主導する工事関連の仕事に従事している。
「いえ、先月ほどではないですが、市井のメイジは増えております。
 医者を開業している人なども、おりますわね。
 新市街の方も、こちらで建設を進めている以外に建物も土地の貸借申し込みも増えていますし、メイジの手によらず建築が進められている家なども見かけます」
「なるほど。良い傾向ではありますね」
「ええ、でもこの歓楽街は……」
 治安の悪化にもつながりやすいが、領民の息抜きに必要なことも事実だった。全く歓楽街のない都市、というのもそれはそれで困るし、犯罪の温床になるからと言って子爵家直営で風俗営業をするのも問題である。
「……法令や布告に反しないことが条件ですが、普通の対応で良いでしょう」
「よろしいのですか?」
「ええ。
 もちろん、賄賂や脱税には厳しく対応します。
 場合によっては、取り締まりに領軍を使うことも考慮して下さい」
「はい、かしこまりました」
「それから……」
「はい?」
 リシャールは、少し考えてから付け加えた。
「子爵家及びその関係者は、それらの店で飲食その他をする場合にツケ払いを禁止すると、内部布告を出しておきましょう。
 もちろん、店の方にも通達を出しておいて下さい」
 多少は効果があればよいかと、リシャールは消極的な対応に留めた。締め付けは、厳しすぎるのも緩すぎるのも問題なのだ。

 そのようにしてセルフィーユの発展はめざましいものがあったが、リシャールは相変わらず忙しく動いていた。一つ余裕を作れば、二つの忙しさに追われると言った具合である。
 それでも虚無の曜日などにはきっちりと休めるようになったのは、家臣団の充実によるところが大きい。
「旦那様、王都から奥様の衣装を届けに商人が参じております」
 月頭のその日も、カトレアとのんびりと過ごしていたのだが、先日呼びつけた仕立屋かその使いであろう者が、屋敷を訪ねてきた。
 園遊会の日取りは初夏のアンスールの月の初旬と既に発表がなされ、リシャールも招待状を受け取っている。あとふた月ほどもあるから少々気が早いのではあるが、旅行に行けるということで二人とも心待ちにしていた。
「こちらに通して下さい。
 それと、ヴァレリーにもこちらへ来るようにと」
「かしこまりました」
 デザイン画らしきものや生地の見本などは見ていたが、実際に出来上がった物を見るのはやはり楽しみである。
 カトレアは少し考え込んでいたが、ついっと顔を上げると立ち上がった。
「どうかしたの?」
「……ねえ、着てみても良いかしら」
「もちろんだよ。
 じゃあ、僕はここでお披露目を待っているよ」
 カトレアも楽しみにしてくれていたようであると、リシャールとしても嬉しくなったので笑顔で送り出した。
 カトレアが着替える間、仕立屋の方はこちらに呼んで労い、衣装や宝飾品の残り代金を支払った。後は雑談に興じていたが、リシャールが錬金鍛冶師と言うこともあり、自然、話は宝飾品の事になっている。
「最近流行の指輪はといえば、やはり白金の台座に小降りの宝石を並べたものです」
「ほう、白金ですか」
 白金、つまりはプラチナである。金銀と並んで宝飾品に珍重される金属で、金よりも流通量が少ないので等量の地金ならば金よりも高い値が付く。
「ええ、それに、少し前までは指輪に使う宝石は大きい物が好まれたのですが、こちらは首飾りの方に流行が移りましたな」
「なるほど……。
 私も時には作ったりしますのでね。
 いや、参考になります」
 そう言えば、プラチナは触ったことがなかったなと、リシャールは思い返していた。練習には銀をつかったし、ジャン・マルク夫妻やカトレアに贈ったものは、全て純金であった。
「あなた」
 ヴァレリーに伴われて、出来上がったばかりのドレスに身を包んだカトレアが戻ってきた。流行の色合いの中から明るい雰囲気の薄い緑の生地を選び、清楚な中にも気品と色気が感じられる品に仕上がっている。
「うん、ますます美人だ。よく似合ってるよ。
 園遊会でも噂になるんじゃないかな」
「ええ、本当に美しゅうございます」
「ありがとう、リシャール、ヴァレリー」
 カトレアも楽しげな様子で、スカートの裾をちょこんとつまみ上げて礼を返した。無論、戯けているのであるが、本当に嬉しそうであった。
 実に良い仕事をしてくれたと笑顔で商人を送り出したリシャールは、そろそろ園遊会の時の竜籠を手配せねばなどと考えていた。
 だが、普段着に着替えて戻ってきたカトレアは、珍しくそわそわとして落ち着かない雰囲気である。
「どうかしたの、カトレア?」
 リシャールは、何事だろうとカトレアに聞いてみた。
 それでもカトレアは迷っていたようだが、リシャールの手をぎゅっとつかんで話し始めた。
「リシャール、さっきのドレスはしばらくお預けになるかもしれないの。
 だから、リシャールに見せるためだけに、袖を通してみたのだけれど……」
「えっ!?」
「とても残念だけど、園遊会も行けないかもしれないわ。
 あのね……」
 カトレアは恥ずかしそうに、しかし、とても嬉しそうにリシャールの耳に口を寄せた。 

「赤ちゃんが出来たみたいなの」

 リシャールは目を大きく見開いたまま、しばらく固まっていた。






←PREV INDEX NEXT→