ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第四十七話「密約」




 とにかくカリーヌに口止めをお願いしよう。
 泉で少しだけ相談をした後、急いで屋敷に戻ったリシャールは着替えを借りて身だしなみを整え、カリーヌを訪ねて頭を下げた。カトレアの話では、ルイズは途中で気絶したので、そちらは口止めしなくてもいいらしかった。
「まあ、その方がよいでしょうね……」
「ありがとうございます」
 意外にも、あっさりとした様子カリーヌは了承した。同席しているカトレアも、ほっとした様子である。
「ところで、リシャールもすっかり大丈夫な様子だけれど、水の秘薬でも持っていたのかしら?」
 リシャールとカトレアは、思わず顔を見合わせた。
「あーっと、その……」
「母様、サイレントを」
 カリーヌは少し眉根を寄せてから、杖を振るった。リシャールにもサイレントは使えるが、今は魔力が枯渇していた。
「実は、カトレアから水の秘薬を分けて貰ったんです」
 言いにくそうにするリシャールに、カリーヌは首を傾げる。
「……そのぐらいは構わないのですよ?
 あなたは当家の娘婿なのですから、そこまで気を使う必要はありません」
 水の秘薬は確かに高価で貴重な品ではあるが、娘婿にそれを使うことを躊躇うほどラ・ヴァリエールは貧乏でも吝嗇でもない。
「いえ、カトレアに内在する水の秘薬を引き出して使ったのです」
「引き出す?」
 当然、カリーヌは不思議そうな顔をした。
「その、これはカトレアの治療にも関係するのですが……。
 アーシャの先住魔法、いえ、精霊の使役によるものです」
「なんと!
 では、あなたの使い魔が言葉を使えるのは、契約のせいではなく……」
 カリーヌの目が見開かれた。
「はい、くれぐれも内密に願いたいのですが、彼女は土の韻竜です。
 カトレアには、先日の治療の時に話してあります」
「まあ!
 ああ、それでわざわざサイレントを……」
「はい。
 それからもう一つ……」
 リシャールは、カトレアの手をそっと握った。
「これもアーシャのもたらしてくれたものですが、あと二、三年はかかるものの、カトレアの病は完治します」
「えっ!?」
 今度こそ、カリーヌは固まった。

 その後しばらく話し合いが続けられたが、カリーヌはきちん納得した上で、他の家族の誰にも話さないようにすると約束してくれた。エレオノールあたりが知ったら大変でしょうからねとの一言まで貰ったのは余計だったかも知れないが、エレオノールが知的探求心豊かな女性であることはリシャールも先日の滞在で良く知っていたから、一も二もなく頷いた。彼女に知られれば、アーシャがアカデミーに連れて行かれかねない。
 周囲にはだんまりを決め込み、カトレアの病はいつの間にか治っていた、で納得してもらうことに決めた。
「それから、先ほどの練兵場での件ですが……」
「はい」
「リシャール、その歳にしてはあなたは十分に強いわ。
 特に、最後まで冷静さを失わずに戦い抜いたことは立派です」
「ありがとうございます」
「でも、どうして彼女を……アーシャを呼ばなかったのかしら?
 私はいつもの慣れた戦支度と疑問もなく騎乗したけれど、あなたも彼女に騎乗すれば、空中を駆けることもブレスで攻撃することも出来たでしょうに」
 カリーヌは、部屋の隅に止まり木で寝ているトゥルーカスに、ちらりと視線を向けた。彼はカリーヌの使い魔で、喋るフクロウである。
 リシャールは頭を掻いた。
「その……忘れていたんです。
 いえ、無意識に頭の中から排除していたのかも知れません。
 あの時は、自分の力だけで相対してカリーヌ様に認めて貰わなくてはと、思い込んでいました」
 雰囲気に呑まれた、とは口には出せなかった。
「なるほど。
 そういうことならば、納得は出来ます」
 カリーヌはふむ、と頷いて見せた。
「ただしリシャール」
「はい」
「その歳にしては立派とは言いましたし、実際にその通りであるとは思いますが、やはりまだまだ甘いと言わざるを得ません。
 戦場では年齢など意味のない物ですからね。
 次から我が家に来るときには、私が稽古をつけて差し上げます」
 ここに来る度、あの死闘が繰り返されると言うのだろうか。いや、死闘というのは自分がそう思っているだけで、カリーヌには単なる稽古なのだ。
 彼女は気負う様子もなく、テラスで見せた獲物を狙う猛禽のような目もしていなかった。強いて言うならば、魔法衛士隊の隊長が新隊員に対して朝礼で訓辞を垂れているような雰囲気である。
 リシャールの隣に立つカトレアも、困った様子もなくにこにことしているので、多分、きっと、恐らくは大丈夫なのだろう。妙に勘の鋭い彼女のこと、落ち着いていると言うことは、きっと、リシャールの為にもなることなのだ。
 そしてリシャールにとっても、元魔法衛士隊長から直々に訓練を受けるなど、またとない機会であり名誉でもあった。アルトワを出てからは魔法は絶えず使ってはいても、魔法戦の訓練は殆どしていないに等しい。ここは、カリーヌのお世話になることに決めた。
「ありがとうございます、カリーヌ様」
「よろしい、まかせなさい。
 この『烈風』が、どこの戦場に出ても恥ずかしくないようにして差し上げます。
 それから……」
 カリーヌは少々歯切れが悪い物言いをした。この人には珍しいことだなと、リシャールは訝しんだ。
「あなたにも、あなたの使い魔にも謝らなければならなかったわね。
 ……確かに、ずるかったわ。
 私はいつものことと騎乗したけれど、あなたにはそうではなかったものね。
 最初に気付いてしかるべきだったわ……」
 カリーヌはまるでルイズのように、そっぽを向いたままリシャールに詫びて見せた。まるで年頃の少女のように頬を染めている。
 かわいい等と口に出してはブレイドの一閃で首が飛ぶかもしれないが、リシャールと目を合わせたカトレアも同じ意見のようであった。

 カリーヌの部屋を辞してルイズの部屋に向かう途中、カトレアがぽつりと漏らした。
「母様は、謝ることに慣れていらっしゃらないから……」
「……そうみたいだね」
「でも、優しい人なのよ」
「うん、それは良くわかった」
 情に対して少しだけ不器用な人なのだろうなと、リシャールにも思えた。三姉妹の性格は、確かにそれぞれ母から受け取ったものなのだろう。思い返せば、それぞれによく似たところがあった。
 ほどなく到着したルイズの部屋の扉を叩くと、彼女はもう目を覚ましているようだった。どうぞと返事が返ってくる。
「わたし、リシャールを尊敬するわ」
 部屋に入って開口一番、心配をかけたと謝るリシャールに対して、ルイズはそんな事を言いだした。
「あの状態の母様に背を向けないって、とても凄いことよ」
「いえ、ずっと手加減して貰ってましたから……」
「……嘘でしょ!?」
 落ち着いた今ならわかる。
 カリーヌは、最初から一貫してリシャールの力量を見極めようとしていた。単に叩き潰すだけなら、いくらでも方法はあっただろう。故に真面目な勝負でお互い真剣に向き合ってはいたが、リシャールはともかくも、彼女は本気ではなかった筈だ。
「わたしもそう思うわ」
「ちいねえさま?」
「小さなルイズ、あなたは気絶してしまったけれど、あのあと母様は本気でお怒りになられたもの」
 アーシャの『暴言』に対して激昂したカリーヌの様子を思い浮かべれば、それはリシャールにも容易に推測できることであった。
 ひぐっと呻いて顔色を変えるルイズを、慌てて宥める。彼女には、言葉だけでも恐い想像になってしまうらしい。
「ああ、もう誤解は解けましたから、今はお怒りになられていませんよ。
 それどころか、今度からは稽古も付けようとのお言葉まで貰いました」
「……わたし、リシャールがここにいる時は、絶っ、対っ、練兵場には行かないことにする」
「そうね、それがいいわね」
 くすくすと笑いながら、カトレアがルイズを撫でていた。

 翌日、預けていた剣のうちの一本と特製の油漬けを置いて、リシャールは皆に見送られて王都へと向かった。
「リシャール」
「なあに?」
「昨日の夜、カリーヌが謝りにきた」
「……そうなんだ」
 やはり真面目な人らしい。
「うん、いっぱいお話しした。
 カリーヌはいい人」
「うん?」
「ここもリシャールの領地と同じ。
 約束を守れるなら『震える息』を使ってもいいって言ってくれた」
「あー……」
 アーシャへの詫びなのか微妙なところではあったが、彼女はとても喜んでいるようだった。ラ・ヴァリエールの領地は広いから、亜人退治もさぞやり甲斐ある筈だ。
 勝手に他家の領地の亜人退治などすれば貴族のプライドが邪魔をするだろうが、許可も下りているし、御家の婿殿の使い魔が亜人を退治するということであれば、領民への受けも良かろう。
 ……経緯はともかくも、後で公爵様にも断りを入れておいた方がいいかと、リシャールは思った。
「ああでも、国境付近は行かない方がいいかも」
「そうなの?」
 ラ・ヴァリエールの領地はゲルマニアと国境を接するのだ。領内の亜人退治でさえ、タイミングが悪ければ国際問題に仕立て上げられかねない。
「その時は、僕も一緒に行く」
「うん、約束」
「約束した」
「ふふふー」
 リシャールの言葉に、アーシャは上機嫌で王都を目指した。

 昼過ぎになって、トリスタニアが視界に入った。
 リシャールはアーシャに王宮内の竜舎の場所を教えて、そちらに向かって貰う。
 許可が下りているので、直接降りることが出来るのだ。
余裕が出来れば王都に別邸が欲しいなと思っているのだが、今のところそのような贅沢は出来ない。
 例の如く緩やかな旋回をした後、発着場になっている広場に降りる。すぐに兵士が駆けてきた。
「失礼ながら、職務によって誰何させていただきます!」
「リシャール・ド・セルフィーユ男爵です。
 ルメルシェ将軍とお約束しているのですが」
 リシャールは契約書と、アーシャに積んだ『亜人斬り』を示した。
「は、失礼いたしました。
 おい!」
「はい!」
「どうぞ、こちらへ。
 竜はお引き受けします」
「あ……」
 呼ばれた兵士がアーシャの手綱を取ろうとして困っていた。そんなものはついていないのである。
「ああ、彼女は使い魔なので、人と同じように言葉で指示して貰えれば大丈夫です」
「了解しました」
 アーシャはきゅーと声を上げてから、兵士に着いていった。
 偉ぶらず、畏まり過ぎず。
 自領ならともかく、余所ではこれがなかなかに難しいのだった。

 ルメルシェとの商談が無事に終わって一万エキューの手形を受け取った後、リシャールは宰相の執務室を目指していた。
「こちらの正面であります」
「ありがとうございました」
 案内についてくれた士官は、若いながらも当然リシャールより年上で、少々気を使わざるを得ない。
「いえ、名だたる『鉄剣』殿のご案内をできるとあっては、誉れであります」
 嫌味かなとも一瞬思ったが、彼の態度は本当に嬉しそうである。他の王軍兵士はいざ知らず、ルメルシェ連隊の隊員にとって、リシャールは勲功をもたらしてくれた尊敬すべき人物であった。好意的にもなろうというものだ。
 リシャールは敬礼をする彼に見送られて、王宮の政務の中心地へと入っていった。
 早速、書類を運んでいた官僚をつかまえ、宰相からの手紙を示して、時間のお約束だけでも伺えないかと尋ねて貰うことにして、リシャールは廊下で待っていた。
 しかし、人が多い。いや、国の屋台骨であるのだから当然なのだが、とても羨ましかった。
 この書類を運んでいる小物の官僚達ですら、セルフィーユであればすぐに中心人物に据えられるのだろうなとリシャールは思う。セルフィーユでは、まずは字が書けるように、次に計数が出来るようにと、基礎を教えることから始めねばならないのだ。
 リシャールは行き来する官僚達を眺めながら、休憩がてらのんびりしていた。
 やはり、昨日の一戦が身体に堪えていた。未だに身体がだるいのだ。
 しばらくして、すぐにお会いになるそうですと、先ほどの官僚が戻ってきた。そのまま着いていくと、案内された重厚な扉の向こうに、やせ細った白髪の男がリシャールを待っていた。鋭い目つきが印象的である。
 間違いなく、彼がトリステインの宰相たるマザリーニ枢機卿であろう。『鶏の骨』などと市井で揶揄され、貴族達からは嫌われてもいるが、リシャールはこれまで接点もなく、王宮のとても偉い人という認識しか持っていなかった。
 だがこうして対面すると、間違いなく義父であるラ・ヴァリエール公爵と同質の、為政者としての風格が滲み出ているような気がした。最近は、これでも多少は偉い人慣れしてきたようであり、マザリーニと対面しても、緊張で身体がこわばるようなこともなかったのは幸いだ。
「マザリーニ猊下、お初にお目にかかります。
 リシャール・ド・セルフィーユ男爵です」
「セルフィーユ男爵、わざわざのご足労痛み入る」
 マザリーニはリシャールをソファに座らせ、官僚達には目配せをして退出させた。
「しかし猊下、よろしかったのですか?」
「どうかされたかな?」
「ああ、いえ、こんなに簡単にお部屋まで呼んでいただけるとは思わなかったので、少々驚きましたのです。
 お約束さえ伺えればと、考えておりましたので……」
「いや、お呼びだてしたのは私ですからな。
 こちらに足をお運びいただいているのに無碍な扱いとあっては、礼を失します故」
「なるほど、こちらこそ失礼いたしました」
 諸侯に対する過不足無き扱いとは言え、明らかに目上の人間から礼儀を示されると、少々むず痒いリシャールだった。
 前置きは済んだかと、リシャールはマザリーニに向き直る。
「それで猊下、私を呼び出されたのは、何故でありましょう?
 正直申し上げて、いくら考えても判りませんでした。
 クレメンテ殿は何も仰いませんでしたので……」
「はい、政に関わること故、彼には何も伝えておりません。
 ……実は男爵を見込んで、少々お願い事がありましてな」
「はい」
「貴殿の領地に隣接するドーピニエ領、これを買い取っていただきたい」
「……は?」
 四十五万エキューもの借財がある身の上に、この方は更にそれを上乗せせよと仰るのだろうか。いや、貰えるものなら領地は確かに欲しいのだが、今のところセルフィーユでさえまだ手を着けたばかりなのである。五年後なら喜んで飛びついたであろうが、今はやはり警戒心の方が先に出る。
「ご当地の周辺については私よりも男爵の方がお詳しいかと思いますが、中央の方の事情と経緯を説明させていただきましょう」
「お願いいたします」

 マザリーニによれば、リシャールも領地を得てから驚いたように、セルフィーユに限らず、代官による重税の搾取とそれに伴う税の着服は日常化しているのだそうだ。やはり王政府の内部でも、問題になっていたのだ。ただ、正道を以て正すには余りにも利権をむさぼる法衣貴族同士の横の影響力が強く、単に代官のすげ替えでは意味がないらしい。
 特にドーピニエは酷いようだった。それ以上に酷かったラマディエの代官は今はどうやったものか王都の徴税官吏に収まっており、証拠の隠滅も手早く行われたのか、領地拝領という好機にも関わらずマザリーニにも手が出せなくなった。
 しかし、ドーピニエの方は既に現状を把握しており、リシャールが領地を得れば、記録と実収入の差がそのまま代官の着服分になるのですぐに逮捕できるのだそうだ。
 
「先日下賜された王領のすべて、真に失礼ながら男爵のご領地の様子も含め、少々調べさせていただいたのだが……」
「はあ……」
 内偵でも進められたのだろうが、こうも堂々と述べられると反論のしようもない。内情が筒抜けになったところで後ろ暗いところはないが、火の車になっている男爵家の実態は、余り知られたくはないものだ。
「驚いたことに、男爵は税を下げた上で投資もなさっておいでだった」
「……あの、それは当たり前のことではないのですか?」
 マザリーニの口調は重々しかったが、悲壮を通り越して滑稽でさえあった。一国の宰相が口にするような言葉としては、まともな人間なら首を傾げる内容である。
 また、笑うところではないのも事実だ。
 リシャールにも、あれでまともに領地の経営が立ち行くとは思えなかったし、立て直すのに、どれだけいらぬ苦労をしたことか。半年経った今でも、収入よりは持ち出しの方が多いほどである。
 しかし、マザリーニは首を横に振って見せた。
「先日下賜された八の領地のうち、代官を持たぬ領地は貴殿に下賜された二領のみ。
 他の六つは全て代官が雇われ、領地には投資がなされず、変わらぬ税がかけられておりますな。
 いや、代官という制度や慣習そのものを否定するわけではありませぬが、これでは売らぬ方がいくらかましというもの。
 本来ならば、王政府にて手の回らぬ領地を諸侯に委ねて育て上げさせ、トリステイン全体の国力を底上げすることこそが本分なのですが……実に嘆かわしい。
 その点、男爵は立派に領主としての自覚をお持ちのようですな」
「はあ、ありがとうございます」
 マザリーニにも、貴族達には色々言いたいことはあるのだろう。矛先が自分ではないと理解しているので、リシャールは大人しく聞いていた。
「そういうわけでしてな。
 なんとかお引き受けいただきたい」
「その前に猊下、少しよろしいですか?」
「なんでしょう?」
 リシャールはこの僅かな時間で、マザリーニを信用しても良いかと思っていた。
 彼が貴族に嫌われているのは、ここまでの言動からも当たり前であろうこともわかった。二心もないが正道過ぎて、後ろ暗い貴族達だけでなくその他の人々にも煙たいのだだろう。無論、ただの実直謹厳な政治家というわけではあるまい。こうしてリシャールと密談していることからも、それはあり得なかった。
 真に失礼ながら、自習中のクラスで静かにしなさいと声を枯らす委員長兼業の風紀委員のようなものかなあと、考えてみたりもする。
 リシャールは、どう受け取られるかと思いつつも、返済の目処はあるものの多額の借金を持つ身であること、領地の経営は間違いなく赤字で、今は自身の錬金鍛冶で回していることなどを話した。
「猊下のお話を聞いて、ドーピニエが得られるのは悪い話ではない、むしろ手に入れたいとも思いました。
 王政府のため、ひいては王家のためにもなるのならば、私としてもお引き受けしたいのですが……。
 問題は、手持ちの資金は現状ほとんどない上に、これ以上は借りる先もないということなんです。
 つてのある商人達は多少ならば都合してくれるでしょうが、とても領地を買えるほどの金額にはならないでしょう。
 ヴァリエール公爵には立場上、間違っても申し込めませんし……」
「なるほど……」
 マザリーニはひとしきり考えて見せた。
「そうですな、ここは一つ……」
「はい」
「マリアンヌ陛下におすがりしてみましょう」
 マザリーニは、何を思いついたのであろうか。
 リシャールは緊張と困惑で、返事を返せなかった。

 リシャールは宰相の執務室で、渡されたドーピニエに関する資料と報告書を見ていた。マザリーニは、マリアンヌに話を通してくるからと一人で出かけてしまったのだ。
 自分もついていくべきだったかもしれないが、心の準備もない上に、交渉の邪魔になっても困るので大人しくしていた。このあたり、経験不足が否めないなあと自分を振り返るが、今はまだ、外見の年齢に甘えさせて貰うことにしておく。
 さてドーピニエであるが、土地は二十アルパンほどしかない小さな領地で、人口は百五十人程度とシュレベールと変わらないと資料には記されている。平坦な台地上にあって典型的な農村が一つあるのみだ。主な作物は小麦で、土地は決して肥えているとは言えない。屋敷で雇っているうちの何人かは、この村の出身だったかなと思い出す。隣の領地だが、あまり意識をしたことはなかった。
 領地の収入は商税がゼロで、年末の領税が八千エキューとなっており、地代の評価が十万エキューであった。だが、これも恐らくは蓋を開けてみれば酷いことになっているのだろう。経験済みでもあるし、今回は代官の捕縛予定という、ため息が出るほどありがたいマザリーニのお墨付きまであるのだ。
 しかしリシャールは、一時的には今まで以上に出費が増える上に借財の額が膨れ上がることになっても、まともな経営を行うならばすぐに元は取れるだろうと踏んでいた。
 飛び地というわけでもないから、管理にも問題はない。道を整備して荷馬車の定期便を伸ばしてやれば、極端な不都合も出るまい。
「男爵、お待たせしましたな」
「いかがでしたでしょうか、猊下」
「はい、マリアンヌ様よりご裁可を頂戴いたしました」
 真新しい書類をマザリーニから渡される。
 表向きは領地の下賜とし、セルフィーユ男爵家は王家に対して今後十年間、毎年一万エキューの献上を行うことで対価とすると書かれていた。幸いなことに、利子はついていない。
「猊下、これはいつ発効されるのですか?」
「王后陛下のご裁可ですからな、もう既に発効しております」
 流石、一国の宰相であった。
 リシャールは、そんな簡単に国土を動かしても良いのかと聞きかけたが、口をつぐんだ。もしかしなくとも目の前の人物は、セルフィーユ男爵家の実状もリシャールの性格も、全て折り込み済みでこの席を用意したのではないのだろうかと思えたのだ。この書類も、もしかすると既に用意されていたのかも知れない。
 リシャールは様々な意味を込めて、マザリーニに頭を下げた。
「……委細承知いたしました」
「いや、貴殿に対して頭を下げるのは私のほうですぞ?
 巻き込んだのはこちらですからな」
 マザリーニは照れくさそうに礼をして、聖印を切った。

 その後、マザリーニと詳細を打ち合わせたが、リシャールには領地を引き受ける以外には役回りもないようで、代官逮捕の知らせが入るまでは素知らぬ振りをしていればよいらしい。
 ついでにと、リシャールは製鉄技師の件を話題に出してみた。
「なんとか国の方からお借りすることは出来ませんでしょうか?
 鉱山と製鉄所がまともに動いてくれれば、王政府にお納めする税も数年の内に倍どころではなく増やせるのですが……」
「倍ですと!?」
 リシャールは、せっかくの鉄が単なる鉄鉱石として買いたたかれていく現状に対して、製鉄および鉄製品の輸出に切り替えたいとする計画と、鉄材や燃料は領外から買い付けているものの、既に農具類の販売では黒字が出ていることを語った。
「もう一つ、これはその先になりますが、銃砲類の生産も考えております」
 輸入に頼ることが多い兵器類の国内生産量を多少でも増やすことが出来れば、無駄に他国を肥えさせることも無くなる。その上男爵家への税収となって、一部は王政府にも還元されると、マザリーニに説いた。
「一朝事あらば、輸出入は止まります。
 これは輸入する側だけでなく、輸出する側で事が起きた場合でも同じ事です。
 トリステインは幸いにして食糧の自給には問題ない様子ですが、それ以外については少々心許ないかと思っております」
 トリステインは、農産資源輸出国としての強みはあったが、人口も少なければ国土も狭く、隣接するガリアやゲルマニアに対して国力は一歩も二歩も劣っていた。
「……失礼ながら、貴殿は本当に十三歳なのであろうか?」
「……よく言われます」
 マザリーニは少々呆れ顔ではありながらも、リシャールに対して協力を約束してくれた。






←PREV INDEX NEXT→