ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
第一話「転生と異世界」……ぬくいなー。 最初に感じたのはそれだった。 どうにもヘンだ。 何も見えないし、聞こえもしない。 身動きもほぼ出来ない上にやたらと眠い。 大事なこと……と言うか、何だかすごくびっくりした事は憶えていた。 でもいいや。 とりあえず、寝よう。 目が覚めると、やはりあたたかいままだった。 そしてまた寝る。 何だかよくわからない……。 それを幾度繰り返しただろうか。 ……どのぐらい経ったのかわからないが、目が覚めた後に急に苦しくなった。 締め付けられるような、押し出されるような感じだ。 それまでと違い、ものすごくはっきりとした感覚が体に感じられる。 「おぎゃあ!」 自分ではうわあと叫んだつもりだったが、どろどろとした唾とも吐瀉物ともつかないものを吐き出し、続いて口から出てきたのは、赤ん坊の泣き声そのものだった。 先程までと違い、丁度風呂から出たときのように外気は感じられるが、目が開けられないので確認もできない。 というか、手足の感覚もどうにもおかしい。 そして急に鮮明に思い出されてくる交通事故の場面。 店閉めて、チャリに乗って、車が突っ込んできて……。 混乱した山本は、とりあえず泣いた。 やがて疲れた山本は、泣きやみこそしたがまだ混乱していた。 されるがままに何かを口に含み、何かをつけられ、揺れる何かに寝かされる。 混乱したままの思考ではあったが、彼は眠った。 しばし時間を遡って。 ここはハルケギニアのトリステイン王国、その南東部に位置するアルトワ伯爵領。 その中心に位置するアルトワの街。 旧市街の隅にある屋敷の寝室である。 その屋敷に、先ほど新たな命が誕生した。 元気すぎる泣き声に、たった今三児の母となった母親も、妻が産気づいてから気を揉んでいた父親も、赤ん坊を取り上げたその道四十年の産婆も笑顔になった。 しばらくして落ち着いた今も、親たちは大泣きする赤ん坊を囲んで笑いあいながら話をしていた。 ちなみに赤子の兄たる兄弟は、待ち疲れたのか居間で昼寝中である。 「大変だったね、エステル」 「いいえ、三人目ですもの。 きついけどちょっとは慣れたわよ、クリスチャン?」 「それはどうも。 ……初めましてだね。 顔をこちらにむけておくれ」 その間も、赤ん坊はずっと泣き続けていた。 「リリアン婆ちゃんも、お疲れさまだよ」 この領地では名産婆として知られるリリアン婆も、目を細めた。 「あたしも産婆やって長いけどねえ、これだけ元気な赤子は久しぶりだねえ。 きっと大物になるよ。 で、エステル。体の方はきつくはないかい? なんなら水の癒しもおまけしとくよ」 「ありがとう、リリアンさん。疲れてはいるけれど大丈夫だわ」 「ありがとう、婆ちゃん。 ……さて、伯爵様と父上にご報告してくるよ。 随分とご心配をかけたようだしね」 「ええ、いってらっしゃい、クリスチャン」 妻と赤ん坊の頬に軽くキスをすると、クリスチャンは部屋を出て伯爵らの元へ向かった。 男児二人に加えて、新たにもう一人の父親となったクリスチャン・ド・ラ・クラルテは、自宅を出て領主アルトワ伯の居城に向かった。伯爵はもちろん、伯爵に執事として仕える父もそこにいる。 ラ・クラルテ家は、元はさる侯爵家の分家であったが、現在は無領の下級貴族であった。背任で家が取りつぶしになりかけたとか、敗戦の責を取らされた等と言った不名誉な理由ではない。 三男の分家の次男の分家のそのまた四男の……といった血筋故である。 むしろ、平民になっていないことが驚かれるほどの薄い血筋であった。 もちろん、国から支払われている貴族年金も、血の薄さに比例して潤沢ではなかった。 ただし、家格を考えれば充分すぎる給金が伯爵家から支払われてる。 三人目の息子はどんな子に育つのだろう。二人の兄は母親の血を継いで水のメイジになったから、自分と同じ土のメイジを次いでくれるといいな。 他愛のないことを考えながらも、緩みっぱなしの頬を引き締めもせずに、クリスチャンは屋敷への道を急いだ。 息を整え、城の奥まった位置にある領主の私室をノックする。 「伯爵、父上」 「おお、来たかクリスチャン! 生まれたか?」 「どっちだった?」 「はい、元気な男の子でした」 「そうか、おめでとう」 「元気ならよし!」 チェスに興じていたらしい二人は、クリスチャンを見て何故か気合いを入れ直し、再び盤面を挟んで向かい合った。 クリストフ・モリス・ド・アルトワ伯とその執事でクリスチャンの父であるニコラ・ド・ラ・クラルテ。 親子以上に歳の離れた二人は普段から雇用主と使用人といった枠を外れて仲が良かったが、今日に限って、二人の目は真剣だった。クリストフは普段の温厚さが息を潜め、ニコラは常よりも厳しい顔をしていた。 「いよいよもって負けられんな」 「ええ、負けられませんとも」 サイドテーブルに置かれているワインにも、手は付けられていないらしい。 「お二人とも……?」 「あら、クリスチャン」 「奥様」 クリスチャンより少し遅れて、クリストフの妻ジュスティーヌが入室してきた。先頃嫁いできたばかりのジュスティーヌはまだ十代、初々しさがまだ残るクリストフ自慢の愛妻だった。愛妻家振りについてはクリスチャンも負けてはいなかったが、それはさておき。 クリスチャンは少し下がって一礼した。 「ジュスティーヌ、生まれたそうだぞ」 「男の子であります」 「まあ、おめでとう」 「ありがとうございます」 「ところで、まだ勝負がつかないんですの?」 「……」 盤面を凝視していた二人は、びくっとした後黙り込んだ。 「クリスチャン、聞いてくれる? 二人はね、どちらが名付け親になるかで朝から揉めてたのよ。 まったく、公務どころか昼食まで放り出して……」 「うぐ……」 「面目次第もございません」 アルトワ伯に嫁いで一年ほどのジュスティーヌだが、不思議な影響力を彼女は持っていた。特にこの主従の二人は、何故か伯爵夫人にとても弱かった。 「まあ、今日ぐらいは大目に見ますけど……」 クリスチャンも含めて、男三人はほっと息をつく。 だが、彼女は続けた。 「晩餐までに勝負がつかなかったら、私が名付け親になりますからね」 ぐうの音もでなかった。 結局、勝負はジュスティーヌの預かりになった。 ジュスティーヌはエステルと先に相談していた時に候補に挙がった名前から、赤ん坊の名をリシャールに決めた。こちらの二人も旦那衆と同じく、伯爵夫人と侍女頭という枠を越えて仲がいいのだった。 リシャール・ド・ラ・クラルテ。 それが右も左もわからない世界に生まれ出た山本に、新たに名付けられた名前であった。 数週間も経つと元山本優一、いや、リシャールは目も開き首も座り、周囲の状況を把握していった。 理由は全く分からないが、死んだ筈の自分が生きていることも、赤ん坊になっていることも、あまつさえ、ここが自分の知る世界ではないということも理解できた。 不本意ながらも本能には勝てない。乳を飲み、寝ては排泄をするだけの日々であった。 退屈に任せて日がな思索に更けりながらも、周囲の観察をする。 この頃になると、流石に落ち着いてきたらしい。 まず、自分に一番近い存在である母親のエステル。 彼女は、自分の生殺与奪の全てを握っている存在であった。……母親故に。 最初は口に含まされることに抵抗があった乳にも、もう慣れた。味もそうだが、なんとなく気恥ずかしさがあったからだ。だが、飲まないと死んでしまう。 おしめにしても、自分で排泄のコントロールが効かないことに愕然とした。 前世にしても、彼はごくノーマルな性癖の持ち主だった。当然、赤ちゃんプレイやスカトロプレイを楽しむような趣味はなかったが、生存の為にはやむを得ないのだった。 ただ、母親としてのエステルはリシャールから見ても立派だと言えた。一日中きちんとリシャールの面倒を見てくれたし、何かの用事で席を外すときも、メイドらしき女性を呼んで側につけてくれた。 父親の名はクリスチャン。 彼は勤め人のようだが、どうやら職場は家の近所らしかった。昼食を取りに家に戻ることがしばしばあったからだ。職業はわからないが穏やかな性格のようで、夕食後などはリシャールをじーっと見てはにこにこしてあれこれと語りかける。 曰く、お前は大物になるらしいぞだの、赤ん坊にしては握力が強いのでよい未来を掴むだろうだの、これまた立派な親馬鹿だった。 一度、後述する兄たちがティーカップを倒した時でも、怒鳴りつけずに諭すように反省を促したのが印象に残る。見習いたいぐらいに理想の上司的な父親だった。 そして、兄らしき子供が二人。上がリュシアンで下がジャン。七、八歳のやんちゃ盛りの兄弟である。 兄弟仲は良さそうで、二人とも大抵は一緒にリシャールの元にやってきては、頬をつついたり指を握らせようとしたりする。やはり弟が気になるのだろうなと、抵抗のしようもなく、されるがままになっていた。物わかりのいい赤ん坊を決め込むことにする。 最後に、一緒には住んでいない祖父のニコラ。 頑固者のようだが、リシャールや二人の兄の前では目尻が下がりっぱなしである。おそらく、父の親馬鹿振りはこの人譲りなのだろう。 妻には先立たれているようで、祖母らしき人物には巡り会えなかった。また、小耳に挟んだ会話から、父と同じ屋敷を職場とし、住み込んで働いているらしいことがわかる。 しかし、家族はいいのだ。 どう考えても良い人ばかりのようだ。十二分に恵まれた生まれ変わり先だと理解できた。幼児虐待などは知識としては知っていたが、体験などしたいとも思わない。 日本でないことも別に構わなかった。家族全員と同じく、自分もどうやら金髪のようである。生まれ変わったのだから、元の自分でないことにも諦めはついた。 時代も彼の知る現代では無い。父達が勤めるのは伯爵と呼ばれる人物の屋敷のようだったし、家具や食器などを見た限りでは、中世か近世のヨーロッパ風である。おむつは昔懐かしのサラシだったし、夜はランプや蝋燭が当たり前のように使われていた。 彼にとって最も大きな衝撃は、どうやら魔法が実在することだった。どうも、異世界に迷い込んだらしい。 父も母も祖父も、まだ子供である兄たちさえも魔法を使う。 最初、ベッドに寝かされていたのに急に自分が空中に浮かび上がったときには、ちびった。 その独特の浮遊感に素で泣きわめきもしたが、何回かされるうちにこれも慣れてきた。ただ、赤ん坊であることの無力感に別の涙が出てきたが、それはまあいいだろう。 そうこうしているうちに慣れてくるもので、彼はリシャールであることを受け入れていた。 人間、開き直ることも大事である。 時折訪れる伯爵や伯爵夫人も、気のいい若夫婦といった印象であった。中世貴族からイメージされる暴君ではなかったようだ。夫人の腹が膨れていることから、こちらももうすぐらしい。 他にも、母も屋敷勤めであるが自分を生んだ為に休職していることや、自分の祖父が伯爵家の執事であることなどが朧気ながらわかってきた。 そうか中世なのか魔法なのかと、色々考えてみた。 自動車はないだろうし、テレビも電気もない。コンピュータやインターネットなど、逆に魔法にしか見えないのだろうと想像する。時折外に連れ出されて見える風景は、テレビの観光番組で見たような石造りの家に石畳の道。 ならば、馬や驢馬は使われているだろうとアタリをつけていたが、それ以外のモノは想像の埒外であった。 ドラゴンを筆頭に前世ではありえない想像上の怪物達が、鞍を付けられ、あるいは籠を曳いていたりした。流石に度肝を抜かれ、またもリシャールはちびった。……赤ん坊だから仕方がないのだ。 『驚きは排泄に直結する』と云うどうでもいい言葉を思いついたが、それこそ本当にどうでもいいことだった。 やがて寝返りもうてるようになり、はいはいも覚え、つかまり立ちで立つことも出来るようになった頃。 「パパだぞ」 「ママって呼んでみて」 両親がしきりとリシャールに話しかけてくる。 リシャールは非常に困っていた。 多分、普通に会話が出来るのはわかっていたが、そのタイミングを計りかねていたのだ。 急に流暢に喋るわけにもいかず、その日はまー、まーとたどたどしく繰り返すに留めておいた。母は大喜びしていたが、父の少し寂しそうな顔に罪悪感が浮かぶ。だが、申し訳ないと思いつつもその日はそれだけにしておいた。 兄達の会話どころか、祖父らの政治談義まで充分に理解しているなどと知られては、おそらく困ったことになるはずだった。 この頃には、リシャールも一つの行動指針のようなものを立てていた。 なるべく目立たないことにしようとしたのだ。匙加減が分からないというのもあったし、魔法などは理解の範疇外だったからだ。 雇われ店長として働くうちに身についた処世術の一つとも言えようか。元々悪目立ちするような性格でもなかったが、出る杭は打たれると云うことの怖さは割と知っている。赤ん坊が政治談義に口を挟んでは天才児どころの話ではない。 特に、子供のうちは自重しようと心に決めた。赤ん坊時代に感じた、想像以上の無力感に心が折れたとも言える。 段階を踏んで、赤ちゃん語から文節を含んだ言葉を喋れるようになった頃、いや、喋っても不思議がられないように時間をかけて言葉を覚えていっている振りを終えた頃。 知っていることと知らないはずのことの区別が、曖昧になってきた。この世界の常識と自分の持つ知識とのすりあわせも必要になってくる。 例えば、普段の会話には日本語を使っていて会話も何不自由なく聞き取れる。この時点でもうおかしいのであるが、しかし、文字はアルファベット様の英語ではない外国語であった。だが、読み方を教わると不思議と意味が通じてすぐに読めるようになっていった。単語の意味がわかってくると、次々と連鎖的に難解な本が読めるようになっていく。こちらも何か魔法の力なのかと考えたが、よくわからなかった。 限られた範囲でしかないものの、リシャールが得たこちらの常識では天動説がまかり通っていることがわかったし、ブリミル教という一神教以外の宗教は認められておらず、貴族と平民の階級差はほぼ絶対的だった。 その割には量産には難がありそうなものの衣服などは発達していたり、食文化も自分はまだ口には出来ないが割と洗練されたスタイルであったりして、よくわからないのだ。 それでも、数年のうちに心の中での折り合いはついた。つけざるを得なかった。 彼は、この世界で生きて行くしかないのだ。 魔法の練習も、苦しいながらも楽しく知識欲を満たしてくれたし、家族はこの上なく暖かだった。 伯爵夫妻も、子供が出来てからはそれまで以上にリシャールに気をかけてくれた。伯爵家の子供達にも、二回目の人生とあって精神年齢差が有りすぎたせいか、面倒見が良い従者兼兄貴分として認識されている。小さな波乱もあるにはあったが、みな乗り越えた。 そして、これも仕方のないことなのだろうが、外観に中身が引っ張られているような気がするのだ。中身で言えば五十手前なのだが、そこまで年を食ったような気の持ち方はしていないし、普段は子供らしく振る舞うように心がけている。自己暗示もあれど、外的要因故にそうせざるを得なかった。 子供らしいふるまいも出来るようになったし、身分差や流血沙汰にももう慣れた。慣れざるを得なかった。 街中で、理不尽な理由で貴族に傷つけられている平民を見たときは流石にどうにかならないかと思ったが、見かねた衛兵が仲裁に入ったのを見てほっとした。自分では何もできなかったし、子供であると言うことに甘えて何もできないでいた自分はちょっと情けなく感じた。倫理観や常識、性格などは変わっていないのだろう。 それらを踏まえた上で彼は思う。 もしかしたら、自分は恵まれている上に大きなチャンスを与えられたのかも知れない。 社会構造やシステムは違えど、人間の営みという点では基本的には変わりない。 自分は専門の技術者ではないけれど、この世界にない知識や前世での経験という強みがある。 この世界でなら、何処にでもいるような人間だった前世の自分と違って、何かを得られるかもしれない。 一国一城の主になるか、英雄になるか、豪商になるか。 学者や政治家でもいい。 あるいは悪の魔法使い、はたまた盗賊団のボス? 単なる市井の一市民で終わるのもまたいいだろう。 前世ではしなかった……いや、出来なかったが、結婚して幸せな家庭を築くのもいいかもしれない。 ただ、そこまでの上昇志向があったなら、前世でも努力すればよかったんじゃないかと考えたが、もう死んでしまった以上、取り返しのつくものでもない。 それに、頑張った方じゃないかと自賛してみる。 おしなべてサラリーマンに成った友人を後目に、大学卒業後にフリーターとなって様々な職種に手を出しながらも旅行にスポーツにと遊び倒した。 そのうち、掛け持ちしていたアルバイト先の一つに平社員として採用され、売場主任や本部勤務を経てそこそこの店舗を任される店長にまで昇進したのだ。 なんだ、立派に出世してるじゃないか。 「よし、やるぞ!」 彼は決意を胸に、リシャールとして生きていく。 しかし未だ彼は四歳。 食卓に上ったにんじんのグラッセを食べるだけで、 「好き嫌いなくてえらいわね」 「野菜をしっかり食べることはいいことだぞ」 と、両親から満面の笑みで褒められる小さな子供でしかなかった。 ちなみに現在のところリシャールの前に立ちはだかる最大の強敵は、白くてぐんにゃりしたアスパラガスである。 ……前世から引き継いだ戦いは、未だ続いているのだ。 ←PREV INDEX NEXT→ |